悪魔との契約


「そんな……そんな待ってトレノ!」
 彼女は張り裂けんばかりの声を、男に投げかける。しかし、男は振り向こうともせず、ただ影を小さくして行くだけであった。
「そんな……」
 そう言うと彼女はガックリと肩を落とす。人気のない、静寂に包まれた公園の一角。彼女の動きは完全に悲劇のヒロインに徹していた。「そんな、あなたのためなら、私どんなことでも耐えてみせるのに。尽くしてみせるのに。なぜ?」
「なぜも何もありませんよ」
「なぜ……なぜなの?誰か教えて?」
「教えなくても気づいているんでしょう。本当は?」
「私のどこがいけなかったというの?」
「しょうがありません。その顔じゃ」
「そう。しょうがないのよこの顔じゃ……って、誰?」
 彼女は怒気を含んだ声を発して、辺りを見回す。「誰?誰なの!今の言葉ちゃんと聞こえてたわよ」
「あれ?聞こえましたか」
 どこからともなく声が聞こえる。姿はもちろん、気配すら感じない。しかし、その声は確かに彼女の耳に聞こえてきた。「ということは……どうやらあなたのようですね、私を呼んだのは」
「私が?笑わせないで!誰があんたみたいな失礼な奴を呼ぶっていうの」
「失礼?私、何か失礼なことをしましたか」
「ヌケヌケとよくそんなことが言えるわね。あんたでしょう!失恋直後の乙女に向かって『しょうがありません。その顔じゃ』って言ったのは!」
「ええ、そうです。それが?」
「それがって……それが失礼だと言うのよ」
「本当のことを言っただけなのにですか」
「だからそれが失礼だって言うのよ!」
「はあ……そうとは知らず、すみませんでした。なんせこの世界にきてまだ日が浅いもので……」
「これから気をつけてよね!」
「分かりました」
「で、何なのよ」
「えっ?」
「何の用事だって訊いてんのよ」
「用事?おお、そう言えば!」
「そう言えばじゃない!いい加減、姿を現してよ。一人でしゃべってると馬鹿みたいじゃない」
「すみません。でも、それはできない相談です」
「何でよ」
「答えは簡単。私には姿がないからです」
「姿がない?」
「正確には、この世界での姿と言うべきですか。なんせ私は、ここに呼ばれた下級悪魔に過ぎないもので自分の体を具象化する力が……」
「悪魔?あんた悪魔だったの?」
「ええ、そうです」
「それで悪魔が私に何の用なの」
「あれ?驚かないのですか」
「驚かないわよ。ついさっき、もっとショックなことがあったんだから」
「そんな、たかが男に振られたくらいで」
「あんたにたかが呼ばわりされる筋合いないわよ!」
「失礼。あなたには重大な問題なのですね。そこで一つ提案があるのですが」
「提案?」
「そうです。どうです私と契約してみませんか?」
「契約……契約ってあんたと?」
「そうです」
「あんた悪魔でしょう?」
「悪魔です」
「私の魂と引き替えに私の願いを叶えてくれるって言う……あの契約?」
「おや、よくご存じで」
「悪魔の契約なんて、どの町でも聞く話だもの。知らない人なんていないわよ」
「そうなのですか」
「で、どうすればいいの?」
「えっ?」
「じれったいわね。どうすりゃ契約が結べるかって訊いてんのよ」
「結んでくれるのですか!」
「当たり前でしょう。トレノが永遠に私の側にいてくれるのなら、魂の一個や二個くらい安いものだわ」
「トレノって何です?」
「私が最も愛する男よ」
「何だ、さっきあなたを振った……ああっ失礼。では契約を成立させるために、名前を教えてもらえますか。それで契約は成立しますから」
「ヘレンよ。ヘレン・マドゥーラ」
「ヘレン……マドゥーラさんっと。はい。これで契約成立です。では、少し待っていて下さい」
「ここで?」
「はい。その場所で。今、望みを叶えて差し上げますから」
「えっ?もう?」
「はい。迅速かつ正確にがこの職場のモットーですから」
 そう言うと声が遠くなり、再び静寂が取り巻く。そして数十分後……
「……どうもお待たせしました」
「本当にお待たせしたわよ。乙女を何分待たせたと思っているのよ。もう、帰ろうかと思ったわ」
「いえ、別に何処へ帰ろうと、全然構わなかったのですが」
「なんか言った?」
「失礼。……とにかくヘレンさん。あなたの望み叶えてきましたよ」
「じゃあ、トレノは?」
 彼女は顔を明るくさせる。「トレノは私の物になったのね?」
「はい。なりました。世間的にもあなたの所有物になっています」
「所有……物?」
「えぇ、そうです。ではただいま移動させますから。それ!」
 そう言った瞬間、側に立っている気により掛かるように男が現れる。「どうです?正真正銘あの男でしょう」
「確かにトレノだけど……」
「何かご不満ですか?」
「……何なのよ」
「何なんですか」
「何なんですかじゃないわよ!これはいったい何なのかって聞いてんの」
「……見たとおりヘレンさんが言っていたあの男ですけど」
「ええ、トレノよ本物のね。でも息してないじゃない」
「その通りです。よかった、もしかして間違った男を殺したのかと思いましたよ」
「……殺してどうすんのよ」
「はい?ああ、殺してどうするかですね。それはもう、ヘレンさんのお好きなように。男の体が腐り落ちてもなお、側に置いて下さって結構ですよ。まあ、ちょっと腐臭がきついかもしれませんが……」
「誰がこんな白目を剥いて、舌をだらしなく出している男を側に置くってのよ!冗談やめてよね」
「そんな、それじゃ契約は……」
「無効よ」
「そんな!私の持てる力をフルに使って、この男を殺したというのに。無効とは殺生な」
「人一人殺して殺生もないもんだわ。あなたは私のトレノを殺したのよ。私の愛したトレノはもう戻ってこない。あのさわやかな笑顔をもう二度と見ることができないなんて……どうしてくれるのよ!」
「どうして欲しいのかと思えば、何だそんなことですか」
「そうよ、そんなことよ。でも、それはもう二度とできないこと……」
「できますよ」
「嘘つかないで!」
「失礼な。悪魔は嘘は絶対つきません」
「……それが嘘なんでしょう」
「疑い深い人ですね。歪曲した解釈をすることがあっても、本当に嘘はつかないんです。まあ、口で言っても信じないのでしたら……それっ!これであなたの願いを叶えました。どうです?」
「どうですって……何も変わってないわよ」
「さわやかな笑顔と言って下さい」
「さわやかな笑顔……えっ?ト……トレノの顔が」
「さわやかな笑顔になったでしょう」
「うん……まあね」
「ちなみに怒った顔と言えば怒った顔に、泣いた顔と言えば泣いた顔になります」
「でも死んでるのよね」
「はい、死んでます。ですからだんだん腐っていって、腐臭がきつくなるかも……」
「……無効よ」
「ええ!何故ですか。あなたの望み通りなのに!」
「なんで私がトレノの死を望んだのよ。笑顔だろうが泣き顔だろうが、死人は死人よ」
「それは死人差別ですよ。死人だって笑顔を見せる権利が……」
「権利の問題じゃないわ。生死の問題よ」
「じゃあ、ヘレンさんはどういうのを生きてるというのですか?」
「それは……つまり、自分の意志で動いてる状態よ」
「では、自分の意志で動いてないのは死人ですか?薬などで体を操られている人は死人だと?」
「それは理屈よ。そんな理屈で私を誤魔化せるとでも思ってるの?」
「思ってませんけど、その理屈でヘレンさんの願いを叶えることはできます。それっ!」
「うっ……ん。あれっ?ここはどこだ」
「トレノ!生き返ったの?」
「ヘレン?生き返ったってどういう……ウギャ!」
「トレノ!あんたトレノに何したのよ!」
「ややこしいので、この男には少しの間気絶してもらったのです。いかがですか?望み通り意志を持っていますよ。ああ、ついでにヘレンさんに好意を持つように、意志の操作をしておきました。でないと、この男はあなたから離れてしまいますからね。まあサービスというやつです」
「何だ、生き返らせることができるのならさっさと生き返らせればよかったのに」
「生き返ってませんよ」
「えっ?」
「いや、ヘレンさんの理屈では生き返ったんですかね」
「それどういう意味よ」
「この男は自分の意志で動いてる状態なのです。でも、体の機能は停止している。つまり死体と同等というわけで、そのうち体が腐っていって腐臭がきつくなり……」
「つまり、トレノを俗にいうゾンビにしたってこと?」
「おお、ヘレンさん。その表現ピッタリですね。なるほど。腐った意志持つ体はゾンビだとは気づかなかった……」
「感心してる場合か!あんたさっきから腐る腐るって言ってるけど、そんなにトレノを腐らせたいの?」
「いえっ決してそのような……ただ、死体はやがて腐って土に帰って行くものであって……ああ、なるほど!」
「な、何よ急に……」
「私、重大なミスをしてました。そう言えばヘレンさん、永遠にと言ってましたね」
「そ、そうよ!腐ったら永遠じゃないでしょう」
「その通りです。では腐らないようにしましょう。えいっ!」
「これで腐らなくなったの?」
「はい。外見は変わりませんが。この男の体は永遠に腐りません。これでヘレンさんの望み通りです」
「本当に?」
「お疑いでしたら、ヘレンさんが望んだ内容を思いだして下さい」
「私が望んだトレノは……私を彼の意志で永遠に愛してくれるトレノ。その点はあってるわ。問題は死体かどうかで……永遠に腐らないということは何時までも彼の体が変わらないわけで、つまり若いままってこと?」
「そうです。不満なところありますか?」
「……バッチリだわ」
「えっ?」
「バッチリだって言ったのよ!これよ。これが私の望んだ願いよ。あんたよくやったわ。褒めてあげる」
「はあ、それはどうも。ところで……」
「ああ、魂ね。あげるあげる。どうぞ持っていって」
「そうじゃなくって、あなたはどうするのですか?」
「どうするって?」
「今のヘレンさんは生身じゃないですか。いずれ死んでしまって、ヘレンさんの望みを完璧に叶えることができなくなります」
「フム。なるほど」
「どうします?どうせならヘレンさんもこの男と同じ体になって欲しいのですけど」
「私に腐らないゾンビになれというの?」
「その通りです」
「ゾンビか……うーん。分かったわ。腐らないなら何にも変わらないと思うし。私ゾンビになる」
「分かりました。では、それっ!」
「……私ゾンビになったの?」
「はい。ゾンビになりました」
「そう。どうもありがとね」
「では、望みも叶えたことですし、私はそろそろ退散いたします」
「退散するって……私の魂を持って行かなくていいの?」
「それは後日貰い受けにきますよ」
「後日って何時よ」
「ヘレンさんの魂が体から剥がれた時。つまり、死んだ時です」
「死んだ時?私死なないわよ。永遠に」
「えっ!何故です」
「何故って、あんたが私をそういう体にしたんじゃないの」
「ああなるほど、そう言えばそうでした……ってのんきに納得してる場合じゃない!どうしましょうヘレンさん」
「どうしましょうと言われても。私が死んだら、私の望みが叶ったことにならなくなるのだから……どうしようもないわね」
「そうですよね。困ったなぁ……」
「後先考えないで。私の言った注文を、次から次へと実行するからよ。自業自得ね」
「全くその通りです・とにかく、このままではヘレンさんの魂をいただくことができません。一度私、帰らせてもらいます。帰って対処方法を考えてきましょう」
「私の体は?」
「願いが叶った状態にしておきます。存分に楽しんで下さい。では、私はこれで……」
「さようなら。……さてと、トレノ起きて。起きて私を愛してると言って。そして私を抱きしめて。強く強く……私の体が壊れるくらいに……」

「先ほど、私の上司である上級悪魔に訊いてきたのですが。ヘレンさん聞いてますか?」
「……聞いてるわよ」
「そうですか。どうも今のヘレンさんを見ていると、ヘレンさんがどういう態度をとっているのか分かりづらくて……」
「ええ、そうでしょうよ。私だって、どう態度を表現したらいいか分からないんだから」
「それで、先ほどの件なのですが……」
「冷静に受け止めないでよ。私が今どんな状態か、分かってるんでしょう」
「ええ、分かります。首から上だけ残って、下の体は粉々に壊れてますね」
「そうよ。よくもこんな体に変えてくれたわね」
「こんな体って、その体はヘレンさんが望んだ体ですよ。永遠に腐らないガラスの体で……」
「確かに腐らないわよ。でも壊れちゃったじゃないの。みてよ、トレノなんか私の体が砕けてもなお、抱き続けようとしてバランス崩しちゃって……」
「頭から倒れて、体全体が粉々になってますね」
「その通りよ。おかげでトレノはしゃべることすらできない。どうしてくれるのよ!」
「そう言われても、ヘレンさんの望みには永遠に壊れない体とは言ってませんでしたし、それにちゃんと元通り組立直せば、この男もまたしゃべれるようになりますよ。つまりヘレンさんの望みは、まだ叶ってる状態にあるわけで……」
「理屈なんかどうでもいいわ。とにかく、早く私達を元に戻してよ。そして、今度は壊れない体にして!」
「それが……駄目なのです」
「駄目って……」
「さっき、上級の悪魔に聞いてきたと言ったでしょう。そうしたら、怒られてしまったのですよ。実は私、下級な悪魔なもので知らなかったのですが、なんでも悪魔は『永遠という言葉を含んだ願いを叶えてはならない』とか言う決まりがあるそうで、つまりヘレンさんの願いは本来叶えてはならなかったものなのです。とはいえ、一度叶えたものを取り消すわけには行かないと言うことで、つまり……」
「つまり……」
「今回の契約では、ヘレンさんの魂を貰わないことになりました」
「なるほど。でも、だからといって何で私の願いが叶えられないのよ」
「何故なら、私とヘレンさんの契約は成立してしまってるからですよ。契約が成立してしまった人間とは、どんな悪魔でも再契約はできなくなるのです。そんなことができたら、一つの魂を二匹の悪魔が奪い合う事態が出てきてしまいますからね」
「でも私の魂は、まだあんたのものになってないんでしょう」
「たしかに現実はそうです。ですが、決まりですから」
「悪魔が決まり守ってどうすんのよ!」
「悪魔だって決まりは守ります。というわけで、私は帰ります。さようなら」
「さようならって、あんた無責任にも程があるわよ。路上に首だけ転がってしゃべるだけの体なんて、自分が見たって気味悪いじゃないの。こんな体でこれから一体どうすれば……って、こらっ!悪魔!聞いてんのか!私の体を返せー!」
「あっ」
「えっ?」
「何か飛んできますよ。ボールですね。避けた方が……」
「避けられるか!」
 彼女がそう叫んだ瞬間、彼女の首から上はボールによって粉々にされた。しばらくの静寂の後、ボールを取りに来た子供が現れ、散らばったガラス破片を一別し、元来た場所へと去って行く。そしてまた、公園の一角に静寂が訪れたのであった。

(悪魔との契約・終わり)










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